「発達障害」について思うこと
 

・・・「発達障害は病気ではない」という視点から 


 学校教育の場で、「発達障害」と言われる子供たちが最近非常に増えてきているとしばしば指摘されていますよね。そして、これは日本に限ったことではなく、先進国では共通してみられる現象のようです。

 これまで発達障害は遺伝等による生まれつきの脳の機能障害によるものだと考えられてきたわけですが、それが今急激に増えているということに、何か違和感を覚えませんか。

 そもそも「発達障害」は「スペクトラム(連続体)」という多様なグレーゾーンからなるものだと考えられていて、このグレーゾーンの一部が「発達障害の疑い」と診断されてきたわけですが、最近よく耳にする「発達障害もどき」というのは、このグレーゾーンの一部なのかどうか、ちょっと怪しいのではと感じています。親も教育現場も、「発達障害」についての理解なしには子育てや教育が難しくなっている現状ですが、実はよく分からないまま、正しく理解できていないまま、「発達障害」という言葉に不必要なまでに振り回されてはいないか、とても気になっているところです。

 そこで、ここでは、発達障害なるものが増えてきていると言われている点や、「発達障害もどき」についてはどう考えればよいのかという点、そしてそういう子供たちに周りの大人はどのように関わっていくことが望ましいのかなどについて、あれこれ私見を述べてみたいと思います。

結論だけを先に言うと、「発達障害が疑われる子どものほとんどは,『発達障害』を前提として考える必要はないのではないか。ただし,似たような特性が部分的にある場合は,発達障害の支援上有効とされている働きかけ・関わり方は,採用してみることが望ましい。」という個人的見解になりそうです。

 

 

1 発達障害って何?

 既によく知っている場合も、何となく知っている気がするという場合でも、改めてもう一度ピンポイントで頭の整理をしてみましょう。

 

「発達障害」などの「○○障害」という言葉は,いくつかの症状が出ていることによって普段の社会生活に支障を来している場合に医師によって診断される病名であり,普段の生活に多少の困難はあるものの日常生活をそれなりに送れている場合は本来的には発達障害とは診断されません。

身体の病気であれば、「腫瘍があるから」「この細胞数が基準値を下回っているから」など明確な病理の存在が確認され、断定的な診断がなされるものも多いです。

一方、精神や心、発達に関する診断には「現段階では~と思われるが、今後~の診断も視野にいれて考えていく必要もある」「~障害の傾向が一部認められるが、断定はしきれない」など、言い切れないケースがとても多いんです。

 

2013年に公開された米国精神医学会が作成する、精神疾患・精神障害の分類マニュアルDSM-5などをもとに、日本小児神経学会などでは「障害」という表記ではなく、「~症」と表現されるようになりました。現在は下記の表現になっています。

神経発達症
 以前は発達障害の名称で呼ばれていましたが、現在は神経発達症と呼ばれるようになりました。
 知的発達症(知的障害)、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、コミュニケーション症群、限局性学習症、チック症群、発達性協調運動症、常同運動症が含まれます。

 

「障害」と付いていることで,「それって,障害者ということなのか」と思ってしまう場合が少なくないようです。ここでいう障害とは,「精神障害」という医学的症状の一つであることを意味しており,医療的手当の必要性を判断するためのものです。

その中で,「発達障害」などに関しては,「障害」というレッテルや偏見が問題視されるようになって,新しい診断基準ではこの「障害」という表記ではなく「○○症」と呼ぶようになってきています。

また,日本では,「発達障害」という言葉が,昨今の学校教育における重要な課題として取り上げられて,医学的なものとは若干異なる定義づけや対応策が示されてきています。

たとえば、「発達障害者支援法」において、発達障害は以下のように定義されています。 (定義) 第2条 この法律において「発達障害」とは、自閉症アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。 2 この法律において「発達障害者」とは、発達障害がある者であって発達障害及び社会的障壁により日常生活又は社会生活に制限を受けるものをいい、「発達障害児」とは、発達障害者のうち18歳未満のものをいう。 3 この法律において「社会的障壁」とは、発達障害がある者にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。 4 この法律において「発達支援」とは、発達障害者に対し、その心理機能の適正な発達を支援し、及び円滑な社会生活を促進するため行う個々の発達障害者の特性に対応した医療的、福祉的及び教育的援助をいう。 

 まず、発達障害にはどのようなものが含まれるかについては、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害」であると示されています。 「発達障害者(18歳未満は「発達障害児」)」は、「発達障害」と「社会的障壁」によって「日常生活又は社会生活に制限を受けるもの」とされていることも重要です。生物学的要因による「発達障害」と、社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他である「社会的障壁」の2つによって、日常生活や社会生活に制限を受けている人が「発達障害者(発達障害児)」であるという考え方を理解することが、支援において大切になります。 

生物学的要因による「発達障害」自体には、投薬などの医学的な対応(医療的支援)が必要で、それによっても根本的な改善や解決に至ることは難しいことも多いです。しかし、「社会的障壁」は社会の側にある障壁であるため、教育や心理、福祉の立場から事物、制度、慣行、観念等の障壁を少なくすることは可能です。こうしたことが、「合理的配慮(障害を持つ人が障害を持たない人と同様に社会生活を送れるよう、社会的障壁を取り除く配慮のことで、法律で義務化されている)、発達支援、特別支援教育、教育支援の検討と実践において鍵となってきます。


 

2 発達障害もどきって何なの? 

 「発達障害」も「発達障害の疑い」も、それは医師の診断によって付けられるもので、たとえ発達障害に詳しい心理職や教育関係者であったとしても、勝手に決めつけることはできません。ここで,実際の場面で多くの人が混乱しやすいのが,「発達障害の疑い」とか「発達障害っぽい」と言われたときです。本来,「○○障害の疑い」と言うときは医師の診断が必要なのですが,この「疑い」というあいまいな言葉の持つニュアンスゆえに,多義的な意味合いで用いられてしまっている場合が少なくありません。たとえば,「グレーゾーン」と考えられる場合に,それは「発達障害の疑い」レベルなのか,疑いそのものも「グレー」なのか,あるいは「疑い」のレベルでもない程度なのかがきちんと区別されないまま用いられていることも少なくないように思えます。 

 また、最近の教育現場で散見されるのは、おそらく医師に診てもらっても診断名が付くほどではないように思える、ところどころ問題はあるものの、とりあえずは学校生活や家庭生活に大きな支障は来していない状態にあるといった子どもたちです。それでも、他の正常発達の子どもと比べると、全体指導が入りにくいとか、こだわりや気分のムラがあって学習活動に集中できずにいるとか、他の子どもとのトラブルが起きやすいなど、教師からすれば結構手がかかって、個別対応に時間を要してしまうといった大変さがつきものです。保護者に丁寧に話を聞いてみると、「実は、家庭でも・・・」といった困り感が出てくることも少なくありません。通常級(クラス)で大丈夫か、通級などの特別支援が必要かといった点で、教師も保護者も一番悩んでしまいがちなのが、こういう子どもだったりもします。 

 そもそも、発達障害は、その特性の強さ・濃さによって、「黒(誰が見ても発達障害に間違いない)」から「限りなく白(ほとんど正常発達の子と同じ程度)」といった、多様なバリエーションからなるスペクトラム(連続帯)であると考えられているため、日常生活にさほど支障がない程度のグレーゾーンというのも理論上は存在することになります。逆に、スペクトラムのどの位置からが「発達障害」と診断できるものなのかに関しても明確な判断基準は乏しいのかもしれません。結果的に、「発達障害(診断名として)とは言えないまでも、それっぽい特性がいくつかうかがえる」といった「発達障害もどき」の子どもが何やら増えているという印象になっているようです。 

 「発達デコボコ」という言われ方もあります。知能検査や発達検査などで調べてみると、それぞれの因子(特性ごとのまとまり)に顕著なバラツキがうかがえることも少なくないことから、平均的なレベルに比べて低すぎる部分があると、そのデコボコのせいで様々な場面での「困った」行動を取ってしまうと考えられています。ただし、そのデコボコが問題になるかどうかの判断基準は、一般的な子どもたちに関する理論上の統計的な処理に基づいた「統計的有意差」が認められるかどうかによっています。どんな子どもであれ、発達の進み具合には個人差があるわけですが、それがある限度を越えていると考えられる場合の、あくまで理論上のバランスの悪さということになります。ましてや知能の各因子ごとのバランスの良し悪しについては、単純に決めつけることは望ましくありません。 

 また、発達障害を「発達」の問題だと思ってしまっている人が結構います。これは、教育関係者が必ずしも正確な理解がないまま、発達障害の「発達」という言葉だけが独り歩きしてしまっているからなのかもしれません。また、診断に用いられる代表的な心理検査の「WISC-Ⅳ(現在はWISC-Ⅴ)」が、以前は知能検査代表格とされていたのが、最近では発達検査の一種であると言われるようになってきていることによるものかもしれません。 

 一方、「第四の発達障害」という言い方があります。従来の一般的によくある発達障害とは異なる、ストレスによって発達障害に類似した特徴が認められるものを指しています。虐待や幼少期の不適切な養育などによるトラウマ(発達性トラウマ)が原因になっていると考えられていて、いわゆる「愛着障害」と言われるものを指しています。しかし、愛着障害は発達障害とは全く別の診断カテゴリーに含まれるものであり、本質的には発達障害ではありあません。見た目の症状や行動特徴がよく似ていることから、発達障害のようなものとしてとらえられがちなため、教育現場でも混乱が生じている場合があります。 

 では、本来別のものがなぜ酷似しているのでしょうか。この点については、まだ解明されていないようです。発達障害は主として生まれる前、胎内で受けたなんらかの環境因子のストレス、ダメージによって発達が阻害されるのに対して、トラウマや愛着障害は生まれた後に不適切な養育、虐待、その他のストレスを受けて発達が阻害されるものだという考え方もあるようですが、発達障害が遺伝要因が大きいとされてきた従来の見解とは必ずしも一致しなくなってしまいます。 


 

3 発達障害の「グレーゾーン」とは? 

 ここ数年で発達障害に関する情報が広がり、「もしかしたらうちの子も?」と考えて受診する方が増え、診断を受ける子は年々増えています。 

中には「一部の診断項目には当てはまるが、診断基準を満たしきらない」グレーゾーンの子も多いです。グレーゾーンには,ほぼ「正常」な状態から「障害」と診断される状態までの中間に,多種多様なタイプの特性があるのです。 

 

 どうして、白黒はっきりつけてくれないのかというと、 

 精神や心、発達に関する診断において,「一部の診断項目には当てはまるが、診断基準を満たしきらない」グレーゾーンには,身体の病気とは異なり,「現段階では~と思われるが、今後~の診断も視野に入れて考えていく必要もある」場合や、「障害の傾向が一部認められるが、断定はしきれない」など、さまざまなパターンがあるのです。 

また,発達障害の診断基準には、一定数以上の症状が「幼少期から継続している」かつ「日常生活に著しい不適応がある」ことが含まれます。保護者に子どもが小さい頃の記憶を思い出してもらい、聞き取るのですが、記憶が正確でなく曖昧な方も多いです。また、「著しい不適応」かどうかは、個人の判断によって異なる場合があります。家庭ではいくつかの問題がうかがえるものの学校生活では概ね問題ないという場合も少なくありません。 

 そして、「著しい不適応」かどうかは、個人の判断によって異なる場合があります。 

例えば、忘れものが多い、宿題をやらない、お風呂の時間や就寝時間などにルーズなどなど、何度注意しても変わらない様子にふと発達障害の傾向を疑ってしまうかもしれません。その一方で、「自分も子供のころは同じだった」として楽観的に受け止める親もいますし、学校の担任の先生からは「学校生活では概ね問題ない」と言われて安心している場合などもあります。 

このように、「発達障害のように見えるか、個性の範疇と捉えるか」は個人の感じ方にもよるのです。そして最終的には、「医師が総合的に診た結果」ということに委ねられます。 

複数の検査をし、何度か聞き取りを行った上で診断を下す医師もいれば、数十分間の診察で診断する医師もいるのが現状のようです。精神科は症状による診断をするのであり、いくつか項目に当てはまればその病気と診断する方法ですが、そのうちいくつかだけ当てはまるという子もいるわけです。発達障害と言われている子どもたちの大半は、単なる発達のデコボコにすぎず、通常の発達と比べるとデコボコがあるものの、それが普遍的なハンディキャップとは言い切れないとという考え方もあります。確かに得意なことと苦手なことの差が大きくデコボコはあるものの、デコボコがあること自体は病気でもないし、障害でもないと言えます。 

 

 
 

4 発達障害は本当に増えているのか? 

 「発達障害」というものを考えるときに,もう一つ重要なことがあります。
それは,なぜここ数年(十数年)で一気に増えているのかという点です。発達障害に対する社会の理解や認識の変化によるものだと一般的には説明されていますが,本当にそうでしょうか?昔から「ちょっと変わった子」というのはどこにもいて,時に学校の先生の手を煩わせていたでしょうが,だからと言って,当時は誰も気づかなかっただけで実際にはもっとそういう子がいたということでしょうか? 


 「発達障害」または「発達障害の疑い」と診断されるケースはそれほど多くはないようです。これは、発達障害に詳しい医師であれば、診断に際しては十分な時間をかけて情報収集を行って正確・慎重に判断していくため、診察待ちや結果待ちに相当な時間を要する場合も少ないという事情もあるかもしれません。また、保護者等からの聞き取りによって、発達障害っぽい特徴がうかがえることを判断材料として、「断定的な診断ができるほどではないかもしれないが、少なくともグレーゾーン的な特性は有しているようだ」として、あいまいな表現で説明されてしまう場合も結構あるように感じています。 

 

 つまり、発達障害自体が急増しているというよりは、グレーゾーンに近い子どもが散見されるようになっているということではないでしょうか。換言すれば、発達障害に類似した特性が(すべてではないにしろ)部分的にうかがえる子どもが急増しているということになりそうです。これはどういうことなのだろうと以前から疑問に感じていました。医学的・科学的にはおそらくきちんと説明できない現象が起きているのではないだろうかと。 


 より広い視点で,それこそ世界的な視点,あるいは宇宙的な視点で見てみると,興味深いことが見えてきます。 

 これまでの「常識」とか「標準」とかいったいわゆる「当たり前」と思っていたことの一つ一つが通用しない子供たちが増えていること。従来の社会は,今ある社会の基準に合わせていくことが学校教育の大事な役割でしたが,既にそれが難しくなっている,これまでの対策・ノウハウでは対応できなくなっているという現実が露呈されています。 

 

 精神症状の診断名というのは、その時代、社会状況によって出たり消えたりする面があって、新しい診断名が発表されると、それまで用いられていた診断名(概念)が用いられなくなることが一般的です。たとえば、「神経症」と呼ばれていたものが現在は別の名称に変わっていますし、「うつ病」と「躁うつ病」は別物だとされてきています。「精神病質」という概念なども一般的にはあまり使われなくなっていますね。子どもに見られるものとしては、「微細脳損傷(障害)(MBD)」というものもほぼ用いられなくなっています。 

 つまり、「発達障害」という診断枠組みでは十分に説明・理解しにくい子どもたちが散見されるようになってきているということであれば、この「発達障害」という診断名とは別の枠組みが必要になっているということなのではないでしょうか。「発達障害グレーゾーン」や「発達障害もどき」なるものを「発達障害」という枠組みで理解しようとすること自体に無理が生じているとは考えられないでしょうか。現在の医学や科学では十分に説明・解明しきれない現象が見られるという現実・事実を踏まえて、より広い視野・高い視点からとらえ直していく作業が急務なのではないかと思うのです。 


 「今どきの発達障害もどきの子ども=宇宙人」という説も一部にありますが、ここではそれを推奨するものではなく、これまでの固定的思考枠組みではとらえきれない現象が現に起きているということを直視して、先入観なくブレインストーミングしながら演繹的な答えを出していくことが大切になっていると言いたいと思います。 

  このことは、「発達障害」という診断名に振り回されないためにも必要なことであって、診断してもらうことで安心する保護者もいますが、それに伴う具体的な改善策が見つからないのであれば、診断名ではなく、その子特有の具体的・日常的な行動特性に丁寧に焦点を当てていくことのほうが大切だと思うのです。 

 ここまで述べてきたことから考えていくと、「発達障害」との診断名を付けてもらわないと特定の支援・サービスが受けられないという現実的なニーズがある場合は別として、一般的には発達障害であるかどうかを明らかにする必要は必ずしもないような気がしてきます。 

疑問が残るときは、遠慮せずに直接聞いてみるのがおすすめです。医師だけでなく、心理や福祉の専門家の意見を幅広く聞いてみるほうが良いでしょう。いずれにしろ、保護者自信が納得して、わが子の現状を正しく理解できるようにすることが何よりも大切です。たとえば、「どんなところから、グレーゾーンという結果になったのか?」とか、「今できることとしては、どんな対応があるの?」、「今後の具体的な関わり方や支援の仕方について、もう少し詳しく相談できる場所はあるか?」などがあるかもしれません。 


5 どういう支援が必要なの?

  学校現場に多い「年齢相応にできるのは当たり前。できないときだけ叱る」という考え方は、発達にデコボコのある子どもたちには向きません。出来事の背景を読み取る力が弱い子は、なぜ叱られているのかを理解できないのです。やみくもに叱責するのではなく、「こうすればうまくいく」という方法を丁寧に教えてあげてください。また子どもたちの「できていること」「努力していること」を確認してあげるとよいでしょう。 発達のデコボコがある子どもたちは、自分だけができない、繰り返し叱責されるなどとして、「自分はダメだ」という失敗体験を積み重ねていることが多いものです。したがって、子どもがいつもより努力していることを見いだし、それを具体的に積極的に褒めていくことが重要です。

 

 発達障害に有効とされている様々な支援方法・技法が開発されていますが,それらは「みんなとちょっと異なる特性を有している子ども」にもそのまま有効なものが多いのです。
この子には何が合うのかは、まさに人それぞれですし、年齢的な発達段階によっても異なります。まずは、保護者自身が良さそうだ、これならこの子に会っていそうだと思えるものから、一つずつ試行錯誤的に試してみるのが良いでしょう。
 ただし、うまくいかないという場合、やり方が適切ではないということも最初のうちはよくありますので、専門家の助言指導を仰ぎながら、その子に合った言い方(非言語的メッセージにも留意しながら)を練習していくことが望まれます。

 ここでは、明らかに発達障害が疑われる場合は医師や専門家の指示に従うことを最優先していただくこととして、それ以外の「グレーゾーン」や「もどき」と思われる場合の対応方法に限定して、若干のヒントを述べてみたいと思います。

 

 小さい頃から子どもの成長に寄り添ってきたけれど、「何かがうまくいってない」と感じたり、「他の子と同じようにはいかないかも」と思ったりしている方であれば、これまでに既に専門家の助言を仰いできたはずですので、もう一度それを一つ一つ思い出してみることから始めましょう。より対応が難しくなるのは、学校や専門家からそれらしいことを言われたものの、保護者自身があまりピンとはきていないという場合です。そこには、保護者自身が抱えている問題性が潜んでいる場合も少なくないだけに、まずは助言されたことを参考にしてやってみることが大切になるでしょう。

 

 たとえば、子どものこれまでの様子を振り返ってみて、次のような点があるとすれば、普段の関わり方を少しずつ変えてみると良いでしょう。

 

(例)

・興味のある分野が偏っている。こだわりが強い。

・声かけしても言葉では伝わっていない感じがする。

・思い込みが強くて、融通がきかない。

・学習内容の理解に不得意な分野がある。

・学校の先生から「お宅の子だけ○○ができない。」と言われた。・・・など

 

 

 一番困っているのは、子ども本人です。周りの大人がうまくサポートすることで、本来の力が出せるようになるはずです。自分のことを好きになって、自信を持って行動できるようになってもらいたいものです。何よりもまず、保護者ができることを考えてみましょう。今までの接し方や指示の仕方で「うまくいってないな」と感じる部分があれば、伝わりやすい方法に変えてみましょう。もちろん、今までうまくいっていたものはそのまま続けます。うまくいっていない部分だけを改善していけばいいのです。 

 

 学校生活においては、先生方があれこれ工夫して関わっておられるはずですから、たとえ家庭ではさほど問題はないとか、何をしてもうまくいかないと感じていたとしても、担任の先生がどんな工夫をしているのかを丁寧に確認してみると良いでしょう。

 昨今は、学校場面でも「合理的配慮」というものが求められているので、その実践状況を聞いておくことも大切です。

 参考までに、『生徒指導提要(改訂版)』では、発達障害のある児童生徒への合理的配慮として、以下のように書かれています。 

 学習上又は生活上の困難を改善・克服するための配慮として、読み書きや計算、記憶などの学習面の特性による困難さ、及び不注意や多動性、衝動性など行動面の特性による困難さ、対人関係やコミュニケーションに関する特性による困難さに対する個別的な配慮が必要になります。学習内容についての変更・調整をしたり、ICT 等を活用するなどして情報提供やコミュニケーション、教材等への配慮、体験的な学習の機会を設けたりすることなどが考えられます。また、失敗経験の繰り返しによる意欲の低下や対人関係でのトラブル等による二次的な問題を防ぐためには、心理面、健康面の配慮も大切になります。 SCは、主に心理面の配慮で力を発揮しますが、対人関係やコミュニケーション、学習についての配慮でも重要な役割を果たすことがあります。 

「合理的配慮」は、一人一人の障害の状態や教育的ニーズ等に応じて決定されるものであることに留意することが必要です。「合理的配慮」の提供に当たっては、本人・保護者と学校の設置者及び学校が、建設的対話による相互理解を通じて合意形成を図ることが重要です。

 

 ここで重要なのは「個別的配慮」と、「本人・保護者と学校との相互理解」ですが、ここが一番の難題と言えます。これは、決して担任教師一人でできることではなく、学校全体がチームとなって、教師ごとの役割分担を明確にしながら統一的・系統的な指導・対応を進めていくことこそが重要になります。学校の方針に理解を示して協力的に関わってくれる保護者ばかりではありません。とりわけ「発達障害もどき」の子どもの場合は、学校側の体制整備も保護者との連携態勢も必ずしも十分ではないことが多いと感じています。
その子の現状や特性について、正確かつ適切な理解が前提となりますが、そのためにはスクールカウンセラーなどの専門的関係者の関りが必要不可欠です。とはいえ、スクールカウンセラーや各自治体の教育委員会教育相談機関担当者がすべて発達障害に詳しいとも限りません。専門家の意見を参考にすることは大事ですが、うのみにしてしまうのも危険な場合があります。可能な限り複数の臨床心理の専門家(臨床心理士など)に助言を求めることがとても有効だと思います。


 

【具体的な支援についてのアイデア】 

 

最も大切なのは、日ごろの生活リズムの見直しと改善です。その子の考え方や価値観(こだわりなど)あるいは性格を変えることを優先しないようにしましょう。 

 

①予定・手順を決め明確に示す。 

・   生活のリズムづくり(1日のスケジュールを示し、動きがわかるようにする。) 

・   手順を示す。(文字や絵でみえるかたちにする。) 

・   物の置き場所を決める。(シールをはる、絵や写真で表示するなどの工夫) 

・   時間設定はゆとりを持って、早めに予告をする。(あと○分で終わりなどの予告も有効) 

・   指示は、簡潔に。淡々と、穏やかに。 

・   「○○するのはダメ」というより「○○をします」の方が伝わる。 

  「朝起きてだらだらするのはダメ」より「起きたら洋服に着替えます」 

・   ときには「○○してほしい」とやってほしい行動をお願いする。 

 「食べ終わったら、食器をキッチッンまで持って行ってくれると助かるな。」 

 「学校からのプリントはこの入れ物にいれておいてね。」 

・   行動を指示するときはできるだけ具体的に伝える。 

「しっかり」「きっちり」「ちゃんと」「ていねいに」などは使わない。 

 「使ったものは、かごに戻します。」「字はノートのマスの中に大きく書きます。」 

「○時までに終わらせます。」「明日の用意ができたら、玄関まで運びます。」 


②有効な声のかけ方 

・行動を開始したらすぐ声かけする。 「すぐに始めてくれてうれしいな」 

途中でも声かけする。 「がんばっているね。あとすこしだよ」 

*もちろん、達成できたら声かけする。 

「やったね。すごいよ。できると思っていたよ。」 

・うまくいった行動のコツを一緒に振り返り、達成感を共有する。 

・ もし、うまくできなくても同じフレーズを繰り返す。 

「学校の宿題は○時までにやる。」「寝る前に準備をする」など 

*この時やることが多いとパニックになるので、できるだけ細かく分けて。 

*おまけできることはうるさく言わない。 

・トラブルになったときは、まずはクールダウン。その後、感情を言語化し、事実を確認し「これからどうしたらいいのかな?」と対処法を考えさせる。気持ちは受け入れ、方法がよくなかったことは伝える。 

・「○○してほしい」とお願いしたことができたら、 

「ありがとう」「うれしい」「助かった」を伝えることを忘れずに。 




【 おまけ 】
 

最近増加の一途にある「発達障害」(もどきも含めて)は、
  私は、精神障害と呼ぶべきではないと思っています。
 
普通の子とちょっと違うのは、 
 あくまでその子の「個性」そのものであって、 
 これまで大人たちが当たり前だと思ってきたこと、 
 それがなぜか通用しないのは、 
 その子がおかしいとかずれているのではなく、 
 大人たちの方が実はずれているのかもしれないのです。
 
それなのに、大人たちが自分が信じてきたもの(そう思い込まされてきたもの)に 
 無理やりその子を当てはめようとするところから、 
 何か違うもの、異常なものと勝手にとらえようとしているのではと。
 
本当は、今の社会のさまざまな問題や矛盾を、 
 そして大人たちがごまかしながら生きているおかしな世界を、 
 自分たちが変えていこうとしているのかもしれないのです。
 
 いえ、きっとそうだと私には思えます。
 

先日も、あるお母さんにこんな話しをしました。
 
お子さんはお母さんが思っているように 
 「(発達障害の)グレーゾーン」かもしれませんが、 
そう見るのではなく、 
「天才肌の子」と思って見守ってあげるほうが、 
子どもにとってもお母さんにとっても良いですよ。 
普通の人、つまり凡人には測り知れない 
 すごい能力を持っている点に注目してあげれば、 
 必ずやすごい人になるでしょう。 と。 



 

  (2023.9.20)


 


 

ADHD について思うこと

ADHDって、そもそも何なの? 


 医師や専門家が言っていることに、どことなく違和感や疑問を感じているので、 
改めて自分が何を思っているのかを整理してみました。 
 あくまで自分自身のための覚書きなので、ここに書いたことが正しいということではありません。 
 こういう考え方、見方もあるのか、というふうに、 
皆さん自身が適切に理解を深めていくための参考にしていただければ、それで幸いです。 



 
 「ADHD」と診断するためには、一般的には世界共通の診断基準(DSM-5またはICD-10 )に合致する必要があります。「ADHDとは?」の説明では、ほぼこの診断基準について解説されています。 
 日本で発達障害というものが散見され出した当初は、ADHDはASD(自閉スペクトラム症)とは別のものとされていて、ADHDとASDは発達障害の中で対極にある症状とも考えられていました。
ただし、実際にはASDではあるがADHDの症状も出ているケースもあるという現状を踏まえて、DSM-Ⅳ(1994年)においては、ADHDとASDが併存している場合はASDを優先的に診断する(ASDはあくまでADHDの上位概念、対立概念としてとらえる)ということになっていました。
ところが、2013年 に改定された現在のDSM-5の診断基準では、ADHDとASDの併存を認める(二つの診断名を併記できる)こととなり、その違いがあいまいなままになってしまいました。そうなった理由は診療点数に便宜を図るためだと説明している専門家もいました。 

  ASDと併存する場合があるということは、ASDにもADHDのような症状が出ることがあるということを意味しているのではないかと思います。アメリカの研究では、成人のASDの59%がADHDの診断基準を満たすという結果もあるようです。
ASDとADHDの診断基準の違いって、何が主症状化による違い(個人的違い)なのではないのでしょうか?
教育現場では、医師からADHD(またはその疑い)と診断されている子どもをよく観察してみると、ASDっぽい特性がところどころにうかがえることも少なくなく、ADHDと診断されているものの、その基盤にはASDがあるのではないかと思える場合も散見されます。 

 そもそも、発達障害というものの原因や本質自体が医学的には十分には解明されておらず、何が発達障害なのかということに関しては、医師や専門家の中でも見解が異なることが珍しくはありません。そのため、確定診断が出ずに、「発達障害の疑い」といったあいまいな判断(これも一つの診断ではあります)が下されることも結構あります。
最近では、「グレーゾーン」という表現で、「疑い」なのかどうかすらはっきりしない言われ方をされてくる場合も少なくありません。 
 


  そこで、具体的な行動傾向を改めてチェックしてみたいと思います。 

 ADHDは、①不注意、②じっとしていられない多動、③衝動性がその診断基準になっています。 


まず、物忘れや話に集中できない不注意というのは、一般的には、その子がそこに注意を向けておく「必要性を感じない」(必要なことであると自分を納得させることができない)がゆえのこともあります。
また、ミスの多さは、ADHDでは不注意の特性から気が散って集中できないためですが、ASDでは臨機応変な対応が苦手、自分のこだわりを優先してしまうため、などの原因が挙げられます。
つまり、不注意は、ASDにおいて刺激が多くて処理しきれない状況などでも起こるのです。
「ミスの多さ」という点で見れば、ADHDもASDもどちらも同じように見えますが、その原因はそれぞれ異なり、どちらの特性によるものなのかの見極めが難しい場合もあるのです。 
 

 次に、じっとしていられない多動、つまり落ち着きがないのは、「好奇心が旺盛」、「ストレス」、「注目を集めたい」、「環境由来」などの原因によります。
「感覚の統合の未発達」といった発達の遅れが原因となる場合があるとも言われています。
感覚統合とは、脳に入ってくるさまざまな感覚刺激を、目的に応じて整理整頓・調整することです。簡単に言うと、脳に入ってくる刺激の交通整理ができるようになることが、感覚を統合するということです。例えば、私たちの耳は、目の前で話している相手の話し声の他にも、人の足音や空調の音、外から聞こえてくる誰かの声や鳥の声、車の音や風の音など、たくさんの音をキャッチしています。その「キャッチされた音=聴覚刺激」は、脳の中で重要なものとそうでないものに分けられ、ボリュームの調整がされます。相手の話し声は大きく聞こえ、他の音はあまり聞えなくなるというように、この調整がうまくいっている状態が、感覚統合ができている状態、つまり環境に対して順応できている状態です。
それに対して、感覚統合がうまくいっていない状態は、すべての音が同じボリュームで聞こえているというイメージです。
この状態だと「落ち着いて相手の話に集中することなんて、とうてい無理」です。
ちなみに、「感覚統合の未発達」という現象は、いわゆるASDにしばしば見られる「聴覚過敏」(感覚過敏の一つ)とは脳機能的に異なるものです。

 さらに、学校では集団での一斉指導がメインとなるので、学力的に、あるいは性格的に、今みんながやっている勉強や先生の話に対して、退屈したり興味が持てずにいるということもあります。
授業がつまらない、よく分からないがゆえに、ついつい他のことに目が向いて、目の前の面白そうな刺激に安易に飛びついてしまうということもあるわけです。

このように、「落ち着きがない=ADHD」とは必ずしも言えない場合もあるのです。 

 
そして、急に何かをやりたくなる衝動性についても、退屈しのぎや暇つぶしをしたいがゆえのこともあります。
また、構ってほしくて(注意をひきたくて)意図的にやっている場合もあり、これらは行動に本人なりの理由・目的があるので、短絡的ではあるが「衝動的」なものではないことになります。 
 
ここで、「衝動性」とは何かを改めて確認しておきたいと思います。衝動性とは、悪い結果になってしまうかもしれない行動を深く考えずに行ってしまうという行動特性のことを言います。
本来は、自分または他人に危害を与えるような行為に至るような強い内的欲求に抵抗できない、自己制御がきかないことを意味する精神医学用語です。
つまり、非合理で、説明がつかない、自分でもなぜそれに駆り立てられてしまうのかよく分からない、そういう傾向を指します。
内部から強迫的に動かされる行為のことで,反省やためらいや意図などの介入する余地がないものを意味しており、心的緊張感を一時的に低下させるために生じた、思慮や分別を欠いた冷静でない非意図的行動を指すのです。

診断基準にある「衝動性」とは、あくまで医学用語であり、教育現場ではこの概念規定がかなりあいまいなまま用いられているという印象があります。
たとえば、思いついたまま行動する、考えてから行動することができない、カッとなって大声を出したり手が出たりする、などの意味で用いられていることが多いと感じます。 
本来的な意味では、意図的な行動の場合は衝動的なものとは言えません。本人に何らかの意図(意思)があると考えられる場合は、「衝動性」そのものではなく、目的行動なのです。

また、怒られなければ大丈夫として、分かっているはずのルールを守れないとか、その場面できちんと自己コントロールする必要があることについての意識のゆるさ(自覚の乏しさ)から来ているのではないかと思える場合もあります。家庭でのしつけ不足が見え隠れする場合です。

改めて、その子の行動は本当に衝動性の高さによるものなのか、「衝動性」の定義に基づいてきちんと考えてみる必要があると思うのです。
一方、愛着障害にも同じような症状が見られることが多いと感じています。愛着障害は、発達障害とは全く別の診断基準に基づく診断名ですが、この見分け方は専門家でも難しいと言われています。
また、しつけの失敗といった不適切な養育態度が原因となっている場合も依然としてあります。 

 また、ADHDの子どもでしばしば問題になるのが、周りの人への攻撃行動(粗暴性)が見られる場合です。
これは、困りごと(ストレス)と今の気持ちがどうして繋がっているのかを直感的に理解できないために起こるものと考えられています。
自分の気持ちや相手の気持ちに注意が向かないことが主な要因ですが、それが「衝動性」の高さによるものというふうに理解されてしまっていることも残念ながら多いです。
「人の気持ちがわからない」というのは、相手のことだけでなく自分の気持ちもわからないということなので、「今、あなたはこれに困っているのですよね」「このようなことで傷ついたからイライラしているのですよね」といった話をしていくと改善できることもあります。
一方、ASDの特性に周囲の理解が得られず、ストレスが続くと、身体や気持ち、行動面に症状(二次障害の症状)が現れ、乱暴な言葉遣い、暴力が見られることもあるので、攻撃行動が見られる場合はADHDだとは必ずしも言えないことになります。 



 このように、ADHDと診断される際の症状は、実は他の要因から出ている場合もあるということなのです。
診断はときに主観的であり、流動的なものでもあることを承知しておく必要があります。
特に、ある場面での行動特徴だけから判断していくことは避けなければならず、必ずこれまでの成育歴や家庭での様子、外出先での行動特徴なども丁寧にチェックした上で、かつ現在の行動特徴を複数の目でできるだけ多くの場面についてとらえていくことが欠かせないのです。保護者の話だけからADHDだと判断してしまうことは大変危険なのです。
保護者としては、医師から子どもの様子について質問されれば、マイナス部分を際立たせて答えてしまいがちで、そうなると、診断結果は「発達障害の可能性が高い」となりやすくなります。
特にADHDのチェックでは、日ごろの見た目の行動特徴がはっきりしていることが多いだけに、親自身の認知の歪みが混入している可能性をも視野に入れて慎重に検討される必要があるのです。 


  発達障害の診断方法は基本的に、米国精神医学会が発行する診断マニュアルの「DSM-5」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-5)をベースに、患者の周囲の人間、つまり家族や先生に聞き取り調査を行うというものです。
内容も「多動性があるか」「周囲と合わせることができないこだわりがあるか」「読み書きに困難さを抱えているか」など、極めて主観的な項目が並びます。質問も曖昧なら、それに回答する方の物差しも曖昧です。

実際にADHDと診断されている大人の人の話を聞いてみると、そこで挙げられる行動特徴の中には、「あれ、それってASDの行動特徴だよね。」と思えるものが混じっていることも少なくありません。聞けば聞くほど、ASD とADHDの違いが分からなくなってくるのです。
もはやその二つを明確に区別することは困難なのではないか、現実的ではないのではないかとも思えてきます。 


  このように考えていったときに私が思うのは、ADHDという診断概念はそろそろ別の概念に変更していく必要があるのではないかということです。
ADHDをASD と別概念とすること自体に既に無理が生じており、この二つを再統合した新たな名称が求められます。
 そもそも、ASDを自閉症の一つと見るところに以前から違和感を感じていた私は、「発達障害」という「発達」という言葉を用いている点にも現在の教育現場における誤解や混乱の原因を感じています。
発達障害の「発達」とは、脳の機能的な発達のことを指していますが、発達の遅れ・未熟さといった一般的な「発達」という言葉と混同されていることが非常に多いです。
ちなみに、「愛着障害」の「愛着」という概念もしばしば十分な理解がなされないまま、「それって愛着の問題ですよね」というような言い方をされている場合も散見されます。

これらの言葉上の混乱を解消していくためにも、「発達障害」という概念自体をより適切な表現に変えていくことが大切だと思います。 


  更に、ほとんどの方には理解されにくいこととして、発達障害的な特性を有している子どもたちの中には(実際には相当数いるようですが)、ある理由・目的があって今の時代に宇宙から地球に転生してきた子どもがいるという指摘です。
 
そういう子どもたちは、「インディゴ・チルドレン」とか「クリスタル・チルドレン」という呼ばれ方をしていて、いずれも大きな使命を持って、前者は1970年代後半から地球に到着し始め、後者は1990年代前半から地球に到着し始めたと言われています。(いずれも、その少し前から情報収集や準備のために地球に来ている者もいるようです。)
そして、実は、ADHDと診断される者が前者に、ASDと診断される者が後者にしばしばいるのだそうです。
発達障害の子どもを見ていて、「宇宙人みたい」と時々冗談交じりに言いますが、もし本当にそうだとしたらすごいことです。
すべての発達障害の子どもがそうだとは言えないでしょうが、もし本当にそうだとしたら、その子どもを何やら普通の子と違うからとの理由だけで「精神障害」としてしまうことはとんでもないことになります。

 いずれ、社会全体が正しい理解をしていく必要性に迫られれば、おのずと呼び名も変わっていくのだろうと思います。
だからと言って、それまでは現状維持で良いということではなく、発達障害のように見える子どもたちであっても、実際には障害なんかではないということ、単に今の私たちには理解できない特性を持って生まれてきた素晴らしい存在なのだという認識を少しでも持てるようになっていくことが大切なのではないかと思うのです。
現在社会の中でさまざまな矛盾や葛藤を抱えながらもそれをごまかしながら生活している私たち大人に対して、本当に大切なこと、より適切な価値観や生き方を教えようとしてくれているのだと、多くの方がぜひとも思えるようになってほしいと心から願っています。 
 


最後に、参考までに、ネットで紹介されていたADHDの歴史を記載しておきます。 

CHADDがまとめた記事によると、ADHDと思われるものについて最初に言及したのは、なんと古代ギリシアで活躍し、現代医学の父とも呼ばれるヒポクラテスでした。(CHADD:正式名称Children and Adults with Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder. 1987 年に設立された ADHD を有する者とその家族のための全米で一番大きな非営利団体) 

それ以降、ADHDは様々な定義を経て現在の概念を形成してきました。注目すべきは、ある時期には、「微細脳損傷:minimal brain dysfunction(MBD)」と呼ばれていたものがここに含まれていることです。この診断名は現在では用いられていませんが、それがADHDという診断名に変更されたという経緯があります。 

医学的診断基準が確立する前の病患概念、DSM(米国精神医学会が精神障害の診断・治療を体系的に記述した国際的診断基準)とICD(世界保健機関(WHO)が死亡原因の調査や疾病データの体系的記録と分析のために作成した医学分類)以前の病患概念について、Who says this is a modern disorder? The early history of attention deficit hyperactivity disorderによれば、 
1775年 Melchior Adam Weikard 「不注意」”Attention Deficit”(“Mangel der Aufmerksamkeit”) 病患概念として医学的に初めて記載しました。自身の教科書の中でADHD様症状の不注意を呈する症例について記述しています。 
1789年 Alexander Crichton 「注意の病気」”Disease of attention”’Mental Restlessness’にて報告しています。 
1812年 Benjamin Rush 「注意を向けることの不安定さが関与する症候群」”A syndrome involving inability to focus attention” 
1848年 Charles West 「神経質な子供」”The nervous child” 
1859年 Heinrich Neumann 「変成」”Hypermetamorphosis” 
1885年 Désiré-Magloire Bourneville 「精神不安定」”Mental instability” 
1892年 Thomas Clifford Albutt 「不安定な神経系」”Unstable nervous system” 
1899年 Thomas Smith Clouston 「単なる異常興奮性」”Simple hyperexcitability” 
1902年 George Frederic Still 「道徳的統制の欠如と抑制意志の欠陥」 
1908年 Alfred F.Tredgold  「心理的欠陥」の中で反社会的行動について考察 
1917~1918年 エコノモ脳炎の後遺症研究者 「脳炎後の行動障害」として考察 
1942/1947年 Strauss  「脳損傷児「brain-injured child」の概念を提唱 
1957年 Laufer  「多動症的衝動障害」として考察 
1959年 Knoblock,Pasamanick  「微細脳損傷:minimal brain dysfunction(MBD)」という概念を提唱 
1960年 Chess  「多動症候群(The hyperactive child)」として考察 
1962年 小児神経学領域国際研究グループ 「微細脳機能障害:minimal brain dysfunction」という概念を提唱 
1968年 DSM-Ⅱ (米国精神医学会が精神障害の診断・治療を体系的に記述した国際的診断基準) 児童期の多動性反応(病患概念として初めて登場) 下位項目:多動が前面の分類 
・・・この時点では、子供たちに落ち着きのなさや気を散らすものを引き起こすと考えられていました。また青年期までに治る、あるいは軽減すると信じられていました。 
1977年 ICD-9  児童期の多動症候群として初めて概念化 下位項目:多動が前面の分類 
1980年DSM-Ⅲ  通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害。注意欠陥障害の中で、1)多動を伴うもの、2)多動を伴わないもの、3)注意欠陥障害残遺型を規定。 下位項目:不注意が前面の分類 
・・・この時点でADHDの状態・症状についての理解が深まったと言えます。しかしまだこの当時はADHDとは呼ばれておらず、APA(アメリカ精神医学会)は、多動性の有無にかかわらず、注意欠陥障害(ADD)と名付けていました。 
1987年 DSM- Ⅲ-R  行為障害、反抗挑戦性障害とともに破壊的行動障害の中の位置づけ。1)注意欠陥多動性障害、2)識別不能型注意欠陥障害を規制。14項目の症状リスト。 下位項目:不注意、衝動性、多動を区別しない ここで名称がADDからADHDに変更されました。 
1992年 ICD-10  小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害。その中の多動性障害として1)不注意、2)過活動、3)衝動性を規定。 
1994年 DSM-Ⅳ  2000年 DSM-Ⅳ-TR 注意欠如および破壊的行動障害。その中の注意欠陥/多動性障害として1)不注意優勢型、2)多動ー衝動性優勢型、3)混合型の下位項目に分類。 
・・・この時点でADHDの診断や症状の細分化が明確になりました。 ADHDの症状は、不注意優勢型、多動衝動優勢型、2つの型両方の症状が現れる複合型の3種類に分けられました。 
2013年 DSM-5  神経発達症/神経発達障害。その中の注意欠如・多動症として、症状の発現を「12歳未満」に変更、症状の該当項目数を「17歳以上は5項目」に軽減し、自閉症スペクトラムとの併存を認める。